報告 後藤元(ルネサンス研究所運営委員)
2023年8月26日
我々は、2017年に「論争への参加を呼び掛ける」という声明を公表し、次のような課題を示した。「こうした状況の要因の一つとして左翼の政治的構想力の喪失がある。21 世紀の資本主義は、19 世紀の資本主義、20 世紀の資本主義から大きく変化している。かつて左翼にとって前提となっていた理論的枠組みが、変化の中で機能しなくなり、現実を捉えられなくなっており、民衆の継起する諸抵抗・諸反乱の進むべき方向を指し示すことができなくなっている。支配階級は、いくつかの主要な境界線をめぐって(例えばグローバルな利害と国内の利害の対立と調整をめぐって)分裂を深めているが、現在支配的な層は戦後の枠組みを積極的に破壊-再編しようとしており、その変革への志向・革新性が、変革を求める民衆に支持される一方、左翼の側はこうした上からの変革に反対する「保守勢力」としての位置を甘受するという逆転が生じている。」
政治的構想力の喪失は、ウクライナ戦争に関する左翼の間の議論の狭さにも表れてしまっているように見える。ロシア・ウクライナ・米国・NATOなど主権国家単位の分析が、そのまま民衆の反戦・抵抗闘争に持ち込まれ、あたかも反ロシアか反米・NATOかが問われるべき唯一の境界線であるかのようなありさまである。だがこうした主権国家を単位とする世界認識はブルジョアジーのものではなかったのか?レーニンのプロレタリア国際主義の主張は、対立する主権国家間の争いのどちらかに与することではなく、プロレタリアを支配し戦争に動員するブルジョア的主権国家そのものをプロレタリアの国境を越えた団結により打ち倒すことを主張するものではなかったのか?
非主権的対抗権力の創出による自律的空間の拡大路線が誰の目にも見える形で再度提起されるようになったのは1994年1月のサパティスタ民族解放軍の武装蜂起以降のことであると言って良いかもしれない。イスラム国戦闘部隊の侵攻に対する武装抵抗の中で、ロジャバの住民闘争は「武力の使用は自衛の目的のためにのみ正当化できる。略奪、領土拡張、支配、搾取、他者の奴隷化など、PKKが支持する解放的な目的に反するものは許されない」とする「バラの論理」と呼ばれる自衛武装の論理を発展させるとともに、トップダウン的な事実上公的な政府(主権国家)の論理と住民の自律的空間の建設・拡大を志向する民主主義的連合主義との接合の試みがなされている。
さらには、2011年以降、世界各地で展開された広場占拠闘争は、数千人規模でジェネラル・アセンブリ―を組織し、参加者全員参加による意思決定を行う、直接行動・直接民主義・水平主義を体現する運動として闘われた。この大衆の水平志向のエネルギーに対してどのような態度をとるかをめぐって、スペインでは三つの部分に分解したと思われる。ポデモスは、垂直主義へと運動のエネルギーを糾合することで旧来の中央集権的議会政党として主権国家権力に接近しようとした。アナーキストたちの一部は水平主義に固執し、旧来の<舞台と観客>図式を再生産しているとしてポデモスを批判しつつも、占拠闘争に代わる大衆の運動・組織形態を生み出せず、一旦潜在化し、あるいはアソシエーションに撤退した。そして、ミュニシパリストたちは、水平主義的な運動と議会を通じた地方政府における権力獲得闘争との緊張関係をはらむ節合(「群衆」と「構造」との、分子的運動とモル的組織との節合)を通じて政治的プラットフォーム形成し、地方自治体の権力を活用することにより自律的空間の拡大をめざしたのである。同様のミュニシパリズム的運動は、主に中・南欧州と南北米州で広がりを見せている。
ハート=ネグリによる『アセンブリ』は、上記のような21世紀的運動の一つの解釈を提示している。そして、私としては、彼らの議論に共感し、とりあえずその線に沿って思考を続けたいと考えている。彼らの主張のキーワードは、私の読むところ主権と私的所有の解体であり、その土台としての<共>(コモン)である。以下、これらのキーワードを軸に、私なりに彼らの議論を再構成してみた。
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