文化知創造ネットワークの呼びかけ
2017年5月14日 呼びかけ人:文化知普及協会 境 毅
1.文化知普及協会を始めます
私は、『資本論の核心』で、資本主義を超えるプロジェクトを提起しましたが、中身が不鮮明で自分自身何をやっていいのか明確ではありませんでした。しかし、昨年になって、たんなるシンクタンクではなく、文化知普及協会のようなものを作りたいと考えていましたが、今年3月23日の大阪中津での「哲学を包囲する研究会」に出て、参加者の皆さんといろいろ議論する中で、文化知普及協会のイメージが定まってきました。
まず、文化知普及協会とそれが呼びかける文化知創造ネットワークの二本立ての活動を構想しました。文化知普及協会の方は、呼びかけ人単独でやり、文化知創造ネットワークの方は賛同する皆さん方にそれぞれ自由にやってもらう。
将来的には、文化知普及協会は一般社団法人化し、フェイスブックで、日本語だけでなく、英語バージョンも開設する。
文化知創造ネットワークは、フェイスブックでお友達としてつながり合い、それぞれの活動をネットッワークさせる。
2.文化知創造ネットワークの世話人になってください
文化知創造ネットワークの方は、賛同する皆さんで自由にやっていただくという趣旨ですが、とりあえずは、世話人に文化知創造研究会を開催し、それに呼んでもらって、文化知創造活動を実行することから始めたい。どのようなテーマにするかは、研究会担当者に選んでもらって開催する。その際、私がどのようなテーマで問題提起できるかについて、要綱の作成が必要となりますが、それは世話人と打ち合わせの際に提示したい。
3.文化知とはなにか
文化知とはなにか、という問題ですが、4月22日の「哲学を包囲する研究会」では、文化知をテーマとし、次の4.にあげているテキストの読み合わせをしました。同じように、文化知創造研究会を開催される場合に、これの読み合わせから始めることが早道です。
またこの日には、日本の左翼の欠陥は内ゲバ主義の未克服ですが、その原型は梅本克己の主体性論における内ゲバの論理の内包というところにあることについて指摘し、そこからの解放の道筋を議論しました。HP哲学の旅から引用します。
「『この交替の決定点において、思惟によってつかまれた判断の内容を主体的に自己自身の根底に移す場合、ここには何らかの形で既存の自我の主体的否定が果たされねばならない。搾取者への憎悪と組織的実践は個我滅却のもっとも自然的な発条であるが、根源的には有限な個から無限な歴史への転入はそこに既存の個我の完全な破砕を要請する。それは神秘的な瞬間によるものではないが、ともかく決意の場面はここにある。この決意に指導された洞察にして、歴史は真に理性的なその現実を示すのである。『宗教的なもの』はこの個における歴史的自覚の中にある。ただ唯物論は、こうした自覚過程を存在そのものの底におかないのである。』(『過渡期の意識』、138頁)
この論理(梅本克己の論理)を逆にすれば既存の個我を破砕することが主体性の確立だ、ということになる。そして、戦後主体性論争をへて、残存した主体性派は、結局、この逆転の論理で生きながらえているにすぎない。何故そうなったかと考えるとき、そもそも哲学の大前提を疑うしかないと思われる。旅の一里塚に当たり、その問題意識を以下に書き留めておこう。
1)存在の論理と思考の論理の一致という従来の前提にその不一致を対置する。
2)意志の自立という従来の前提に対してそれを疑う。
3)主体と客体とを媒介する媒介者は対象化されえない、という従来の前提に反して、媒介者を対象化された形態においてしか認めない。
一里塚を超えればただちにこの三つの否定の門をくぐるわけではない。当面の西田哲学の旅もまだその半ばにしかすぎない。」
既存の個我の粉砕による主体性の確立が、組織的実践に媒介されて、自我だけでなく他者の個我にも適応すれば、自己批判要求に始まる内ゲバの論理となることは明らかです。そして人々の自己神格化が進み個我の自由を謳歌する時代となった現在、この主体性論は日陰に追いやられつつもまだ生き延び、日本の左翼を支配しているのです。そのことで左翼がますます信頼を失いつつあるというのに。この現状を何とかするためにも文化知創造に多くの人々がかかわることが不可欠です。
4.文化知の創造(テキスト)
HPバラキン雑記より
文化知の提案――価値形態論の学際的意義――
(拙著『「資本論」の核心』第九章より、初出『ASSB』第6巻1号、1998年)
第一節 文化知とは何か
一 相対化される科学知
文化を広い意味で生活様式と捉え、それに根ざした知の形態を文化知と呼びましょう。歴史上種々な知の形態がありました。中世ヨーロッパにおいては宗教が知の形態の最高のものとされていましたが、近世に入って科学知がそれにとって代わりました。
しばらくは科学と技術は不可侵のものとされていましたが、今日では科学知の位置はゆらいできています。とくに人生の生きがいを求めている若い人たちの間では科学知は求めるものを何も与えてくれない、ということで、宇宙意思とか、波動とかのオカルト知がさかえ、また宗教知も復活しています。
二 科学知の限界
科学知が相対化された原因は、科学知そのものの内にありました。というのも、それは人間にとって身近なものとしてある社会関係についてほとんど何も解明しえていないからです。例えば労働の社会的関係の産物であり、それなしには生活できない商品や貨幣について、マルクスが解明しているにもかかわらず、定説がありません。ましてや言葉とは何かとか、思考とは何か、といったことになると何もわかっていないといっていいでしょう。
このように、科学知は社会的存在としての人間を解明するという点では無力でした。ではそれに代わるものとして登場してきているオカルトや信仰で問題が解決されるでしょうか。幻想や信仰で人間の類的存在を知り、生きがいを探る、といった流行の試みに代わる知の形態が創りあげられねばならないでしょう。
三 科学の方法の刷新
文化知とは科学知の否定ではありません。それは科学知の限界をこえて、社会的存在としての人間を解明し、類の実現形態を明らかにしていきます。その際に文化知が順守するものはあくまで科学の方法です。とはいえ文化知を生み出すには科学の方法自体が刷新されねばなりません。
文化知は科学知を相対化しますが、それは科学の方法の刷新によってです。だから、文化知を、科学知を相対化した人間科学と特徴づけることができます。つまり社会的存在としての人間、人間の社会的関係を解明するためには科学の方法の刷新が必要であり、この刷新が科学知を相対化するのです。
第二節 文化知創造に向けて
一 科学の方法への反省
科学思想史をひもとけば、近代的な科学知の方法の創始者はデカルトとガリレオとされています。数学的物理学が世界の真理を説きあかすとみなす科学知の方法に対し、一九三〇年代にはフッサールによって批判が試みられました。フッサールによれば、ガリレオは経験的な実験から理論をつくりあげるときに、数学的な規定を与えられた、理念性の世界をつくりあげたが、その際この世界のみが唯一の世界とされ、それが日常的な生活世界にすり替えられてしまうことによって、生活世界が隠蔽された、というのです。
このようなフッサールの観点は、デカルトと同時代人のヴィーコによって表明されていました。ヴィーコによれば人間がその存在の真理性を証明できるのは、それを人間が作っているからであり、人間が作ったものではない自然に関しては究極的な真理の証明は不可能で、たえず探究がなされねばならないのでした。
マルクスも、ヴィーコの説を肯定的に捉えていたし、また、科学の方法によって得られた対象についての理論が、対象を科学的にわがものとする思考にとっての方法であり、それ自体は思考産物であって、対象とは区別されたものとみなしていました。
そして、マルクスは、価値形態の分析に際し、従来の科学の方法を刷新しましたが、しかし、その方法は分析内容と一体となっており、弁証法についての概略を書きたいという意志があったものの、方法論として提示されないままに終わったのです。
二 現象学の限界
従来の科学知は思考産物を対象についての真理とみなしていました。この方法に従えば対象はあくまでも客体にとどまっていたのです。ところが人間の社会関係は主体相互の関係であり、主体―客体という図式を適用できません。
フッサールにはじまる現象学は、従来の科学知の方法では捉え切れない領域を生活世界と規定し、そこにおける人間の間主体性を説きあかそうとしていましたが、しかし、人間の間主体性の現実的形態である商品や貨幣の分析をふまえないので、せいぜい心理学的知識を哲学体系のうちにとり込むことしかできていません。
そもそも哲学自体存在の論理と思考の論理の同一性という科学知と同じ前提の上に成立しています。この前提があるからこそ、哲学は存在とは何か、ということについての思弁を展開できたのでした。従って現代の哲学者たちも、その言葉に反して、実際には従来の科学の方法の枠にとどまり、科学知への根底的な批判には成功しなかったのです。
三 価値形態論解読の意義
現象学の提出した生活世界、それは今日の人間の社会生活ということですが、そこにあって最も身近な存在は商品や貨幣です。商品や貨幣が単なる物ではなく、人間の社会的関係であるが故に、それを分析しようとすれば、主体―客体図式は役に立たないのです。従来の科学の方法の刷新がせまられています。
商品、貨幣の秘密についてはマルクスが『資本論』の価値形態論で一たんは明らかにしましたが、しかし、科学知全盛の時代ということもあり、マルクスの解法自体が謎とされてしまっています。そこでマルクスの価値形態論の解説を通して、刷新された科学の方法を定式化していくことが文化知創造の方法となります。
第三節 文化知の方法
一 超感性的な現象形態
文化知の対象はとりあえずは人間の社会的関係ですが、それは超感性的なものです。商品や貨幣にしても、個々の使用価値や通貨をとりあげても何もわかりません。感性的につかみうる個物が相互に社会的関係をとり結んでいるとき、この不可視である関係そのものを捉える方法は、はたしてあるのでしょうか。
関係そのものは感性では捉えられず、それは人間が思考産物として頭の中で組み立てることができるだけです。ところが関係の両極については人間は感性で捉えることができます。この両極としてあらわれている具体的なものを素材にして、関係そのものの概念を思考産物として組み立てること、そのための方法がいま問われています。
二 関係としてしか存在しない実体の発見
従来の関係の哲学にあっては、通常実体性が否定されています。両極にある物の実体性は関係の中では否定されていますので、この考え方に一面の真理はあります。しかし、いま問われているものは、関係としてしか存在しない実体であり、社会的な実体を想定することです。
ソシュールがコトバは差異の体系だと述べたことに発し、商品の価値も差異の体系で、労働価値など存在しない、という説が流行しています。関係が実体を否定すると考えている哲学者たちは、価値の実体性を否定することで、実は関係における同一性を否定している、ということに気付いていません。ところが同一性のないところに関係はなく、関係がなければ差異もありません。商品にしても、コトバにしても、国家にしても、それが人間の社会的関係である以上、同一性があり、それこそが関係としてしか存在しない実体なのです。マルクスの価値の実体とは、個物としての実体的なものではなく、社会的同一性の基体という意味での実体性なのです。
三 形態規定
関係としてしか存在しない実体が想定されることではじめて社会的関係における両極が、超感性的なものであるにもかかわらずどのような現象形態をとるかが判明します。その時両極にあるものは、その本来の感性的な形態とは別にもう一つの形態をもつことになります。但し、その形態は超感性的です。
マルクスが形態規定と述べているのは、この社会的なものの二重の形態を捉える方法です。社会的なもの(物象)は本来の自然形態の他に社会関係によって形態規定されて新しい役割をもつのです。
四 思考の論理と存在の論理
これまでの科学の方法は人間の思考の論理に従ったものでした。それは対象を分析することで抽象し、多くの規定へと還元したうえで今度はそれを思考のうちで総合し、多様なものの統一としての概念を得ます。ガリレオ的科学至上主義の誤りは、この概念をそのまま対象についての真理とした点にあります。
ところが人間の社会的関係にあっては、その関係の中で同一性と差異が確立されています。ということはこの関係の中で人間の思考作用と同じ抽象と総合とがなされていることになります。その際注意すべきは、人間の思考が抽象するのは分析によってですが、関係にあっては相互関係によって抽象が行われることで、ここに思考の論理とは区別された存在の論理を発見できるのです。
五 類と個の転倒
思考の論理でストレートに捉えられるのは、関係から切断された対象です。関係から切断された対象とは、それ自体自然物ではなく、人工物です。従ってそれは道具とともに思考の延長となります。ヴィーコが言うように科学知が捉える真理はこの領域にあります。この領域では個物のみが実存し、それらを多様な統一として分析し、総合することで得られた概念のなかでは一般的で類的なものは抽象的規定となり、個物としての存在はありえません。
ところが関係を捉えようとする文化知の方法に従えば、抽象化は相互関係のうちに行われていることがわかります。関係にあっては抽象的で一般的で類的なものがその極にある個物の形態規定として現れることで、具体的な個物が、一般的で類的なものの実現形態とされることになっています。この社会的関係におけるまわり道と転倒の構造を捉えるところに弁証法の核心があり、文化知の方法の根本があるのです。