設立趣意書​  
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 私たちにこの小さな研究所を構想させたものは、社会運動をめぐる危機意識である。経済危機でも統治システムの危機でもなく、社会運動の危機であり、しかも危機の主体である社会運動が「客観的」には危機に陥っていないという特殊な危機である。さらにこの危機は、世界的に観察されるという点で現在という時代を歴史的に特徴づける、と私たちは考えている。この共通の危機意識に結び合わされて、世代も政治的経験も異なる私たちは、研究所という形での共同作業を模索しはじめている。
 私たちはこの二〇年、社会運動の世界的再生(ルネサンス)に立ち会ってきた。一九六八年の反乱とは明らかに異質であるものの、同じように世界同時性と同質性をもった反乱の連続的生起を、私たちは目撃してきた。民衆の反乱がソ連邦を崩壊させるや、その波は世界中に及び、「グローバル資本主義」に〈抵抗〉する大統一戦線を世界の街頭に出現させた。すると「九・一一」がそこに、対抗関係を「テロ」対「戦争」の図式へと疎外する力をもち込んだ。その間にも各国の大都市には「外国人」が溢れ、「第三世界」が世界中に拡散して、人種間-民族間的色彩を帯びた紛争を遍在させている。進行中のこのグローバル化か、別の「オルタナティブ」なグローバル化か、それとも国境を越えるテロか、国家に主導される治安戦争か――異種の図式の重なりから生れる緊張関係そのものが、世界のいたるところで社会運動の新しい土壌となっている。どんなに異質で局所的な不都合も、「グローバルな問題」の直接的反映であると実感され、そのことが様々な規模とかたちの反乱に次々と火をつけていく。ミクロな具体的問題がすべてグローバルな位相を内部に折り込む構造に促されて、「運動が運動を育てる」現象が拡大しているのである。
 冷戦という名の蜜月のパートナーを失った資本主義は、その歴史的勝利をほんの束の間しか誇ることができなかった。今や誰も「歴史の終焉」が口にされたことなど忘れている。世界を覆う唯一のシステムになったはずの〈市場〉は、自らの矛盾と失敗をグローバル化するシステムに反転し、世界のいたるところで、終わったはずの反資本主義的な社会運動を増殖させている。いかに直接的利害と目標が異なり、相互に敵対的な質をはらむ運動であっても、それらの差異そのものが〈共通の敵〉としての資本主義の姿を浮かび上がらせてくる。今日の反乱者は互いに競合しつつ、その共鳴を社会運動ルネサンスとして表現しているのである。再生した社会運動が総体として示すこの〈資本主義への抵抗〉こそ、私たちは時代を深く規定するものと把握する。

 

 しかし同時に、〈抵抗〉は目下のところ「様々なかたち」のものでしかない。〈市場〉とそれへの〈抵抗〉が対峙する構図が世界的に支配的なものとなったとはいえ、〈抵抗〉を構成する社会運動は、宗教的原理主義からサンジカリズム、さらには小規模で自律的な非資本主義的相互扶助システムの構想にいたる文字通り「様々な」主観的内実をもっている。排外主義さえ新自由主義イデオロギーに抗する力としての側面をもっているだろう。言い換えるなら、国際的にも国内的にも、資本主義への〈抵抗〉は〈弱者統一戦線〉の実態形成を阻むほどに「様々」であり、客観情勢が観察者の目にかろうじて社会運動ルネサンスの同時代性を見せているにすぎない。反資本主義を旗印とする政治的階級形成は、いささかも進展していないと断ずるべきである。進展しているのは「運動の連鎖」であって、共通の政治課題は「反」や「オルタ」という言わば実体を欠いたままでしか拡大する傾向を見せていない。都市暴動から自殺にまでいたる、一種の反乱とみなしうる激発性の現象が頻繁に生起しながら、そこに定位する政治課題は一個の大きな主観として育っていないのである。これこそ、私たちが危機を語る所以にほかならない。過去二〇年の社会運動の成長が〈敵〉ならぬ〈我々〉の共通性を創出しえていない、そのことが政治的危機であると私たちは考えている。 「もう一つの世界」とは、〈市場〉を微調整する諸〈抵抗〉路線のぬるま湯的共存に甘んじることであったのか。そうだとすれば、社会運動はあらかじめ敗者の〈救済〉に甘んじる決断を、それと口にすることなく行っていると言わねばならない。〈私〉の自己主張を〈全員〉の解放に等置する「階級形成の矛盾」――反乱のなかにおける〈我々〉の生成――を引き受ける営為としての政治を、あきらめていることになる。そして他者を前にした〈倫理〉一般を、構想しえない「反」の内実の代わりに差し出していることになる。他人の〈救済〉が問題であるならば、善意のブルジョワジーに任せておく、あるいは彼らを応援することでも足りるのではないか? 彼らとて、搾取の対象が死んでは元も子もなく、安定した搾取のためには一定の譲歩と同意を必要とすることは知っている。 私たちは「オルタナティブ」の空虚をもはや潔よしとしない。そこをもう一度〈共産主義〉によって埋めたいと考えている。共産主義は目指すべき未来の状態ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものであるとマルクスは語っていた。この定義にしたがえば、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかにこそ発見されねばならず、それらの相互連関のなかでのみ自らを深めうるはずである。そして現実の運動は、共通の政治課題の集団的構成としての〈共産主義〉によってのみ育ちうるはずである。だとすれば、社会運動の危機とはまさに〈共産主義〉の欠如を示すものではないのか。そう問うことからはじめたい私たちは、もはや〈社会主義革命〉の向こうに〈共産主義〉を置くことはしない。現状を揺り動かしながら、「様々」であることに止まっている〈我々〉の集団性を進化させていくことを、私たちは再度〈共産主義〉の定義として掲げたいと思う。

  国家を手段として国家を死滅させようとした過程が、現実には共産主義ならぬ資本主義にいたる長い道のりであったこと、社会主義は一種の開発独裁であり国営化が社会の停滞と腐敗を招いてきたことを、私たちは素直に認めることから出発したい。すでに国家は、資本の相互依存システムによって、ほとんど死滅過程に入っているのかと疑えるほど弱体化させられているではないか。そのような国家に提供する政策プログラムとして社会主義を構想することは、もはや資本主義の失敗を増幅させることでしかないだろう。私たちの〈共産主義〉にとっては、社会主義そのものを「国家権力」の迷妄から解放してやる必要がある。しかも統治の不在としてのアナーキーに夢を託すのではなく、〈我々の権力〉を足もとから拡大させる必要がある。つまり私たちは、生産主体としての〈プロレタリア〉による「独裁」を、発明しなおしたいのである。この企図が一つの逆説であることを私たちは進んで認めるものであるが、半ば機能不全に陥っている主権国家は、そうであるがゆえにまさに「様々な」逆説を生んでいないか。かつて「民営化」は労働者階級の政治的解体を目的に行われたが、その解体は解体の実行者であった国家の統治能力まで解体に追い込み、人々の〈自己統治〉に頼る度合いを強めているではないか。「社会」に共産主義的な相互扶助の責任を押し付けることで、自らの主権的性格を守ろうとさえしているではないか。 「国民」は弱い国家を目の当たりにし、強い「権力者」――「リーダーシップのある政治家」――の出現を待望しながら、そのような「権力者」を何より警戒している。誰が統治してもさして事態は変わらないという「有権者の気もち」は、その「事態」の中身を問いさえしなければ、社会主義国家の理想だったはずである。無規定でありながら絶対的な「善」を制度理念の最終審級に担保されている「有権者」と、国境を越える資本の間に立って右往左往しているのが現在の主権国家であり、その統治無能力こそが〈社会主義革命〉を無効にしてしまったのだ。今や大多数の人間が「賃労働者」なのであるから、「社会主義」は一面すでにある。そして中上層賃労働者が拠出する資金が「資本」に変態させられるのであるから、今日の「ブルジョワジー」とは一面「賃労働者」のことである。かつては「工場」そのものが分かりやすい階級形成の場となってくれたが、今日ではその「工場」が先進資本主義国からは日々姿を消し、「生産点」を欠いたまま「資本家=賃労働者」が自分自身と争い、したがって誰とも争わず、ゆえに調停しようもない利害対立を「福祉」国家に調停させようとする。そんなことは不可能だから「自己責任」ではないのか? だからこそ、国家の手前における〈共産主義〉が課題となるのである。国家が人々に「自己責任」を求めるとき、この〈共産主義〉は国家に向って〈我々〉による「自己決定」の範囲を拡大させよと要求するだろう。そのことで、国家の自滅に手を貸すだろう。国家権力の打倒にまで諸矛盾の解決を先送りするのではなく、まして〈革命〉を実行してから考えるのではなく、〈我々〉による現在の解決に国家的制度を従わせようとするだろう。それを革命と呼ぶかどうかは、さしあたって小さな問題でしかない。

 国家の手前には、広大な領域が広がっている。そこには「経済」のみならず、人々の歴史的経験が蓄積されて習俗や文化やイデオロギー等々と呼ばれるものに凝固した社会領域の全体が広がっている。今日の社会運動ルネサンスも畢竟、そこから養分と限界の両方を引き出しているはずだ。このルネサンスが〝本物〟である――私たちは誰よりもそれを承認する――かぎり、近代の幕開けを告げたあのルネサンス同様、そこには社会の最深部における変動、新しい文化と政治形態を発明するまで止まない運動が投影されているはずである。この〈変動‐運動〉のただなかに〈共産主義〉はある。最高の自由を最高の共同性によって実現するまで止まない運動が、ある。

 私たちはつまり、「政治革命」論者でも「社会革命」論者でも、ましてコスモポリタンな「世界共和国」論者でもない。そんなプランが時代遅れになってしまったところに今日の政治課題を見定めつつ、近代の歴史に再定位しようとするにすぎない。ゆえにまた、私たちは政治集団ではない。政治課題が不在であるところに、どのようにして政治集団が出現しうるというのか。政治課題を政治課題とするのは歴史的に形成された「広汎な大衆」の仕事でしかない。ただ、「広汎な大衆」が政治的階級形成を遂げるうえで利用可能な機関であってほしいと願うのみであり、そうした主観的願望を体現する名として、私たちは「研究所」を名乗る‐立ち上げることを選んだ。私たちは「革命的」な機関でありたいと望むが、それは革命の意味が「普遍的な批判であること、したがって革命そのものの批判であること」(マルクス)にあるからである。つまり私たちの「研究対象」をあらかじめ限定するものはなにもない。それを決めるのは、私たちになにかをさせたいと思う利用者のほうであり、私たちとしてはただ、〈共産主義〉の理念を利用者とともに、実践的な「問い」として今・ここに出現させる装置でありたいと願うのみである。

​2010年9月

ポピュリズム

​後藤 元ほか

れいわ現象~左派ポピュリズムの登場?

​伊藤公雄

​中村勝己

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 ルネサンス研究所・関西

Research Institute for the Renaissance of Communism and Revolution 

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