設立発起人のなかから寄せられたコメント  
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1)新開純也
 この呼びかけ文のよいところは、リズムとエラン[躍動感]があり、現状への批判的精神に溢れている点である。私のような「オールドボリシェヴィーキ」には書けない文章である。なにより、「共産主義」をキーワードとしながら、現在問われているのがラジカル(根底的)な変革への志向であると提起している点に共感する。もちろん、内容に対する批判がないわけではない。また、いかようにも解釈できる(おそらく筆者が意図して)ところも見受けられる。しかし現在必要なのは、単なる幅広イズムとは異なる「左派」の共同作業であり、それを通した何かの創造であるだろう。なぜなら、誰も現在と未来を「分かって」いるわけではないうえ、様々な運動だけではなく思想界においても、共産主義やマルクス主義の復権ならずとも活性化が不可欠だと思うからである。私としては老骨、老脳に鞭打って、微力ながら「ルネ研」に参加する。

2)古賀暹
 奇妙な文書であると同時に新鮮な文書であると感じた。どこが奇妙なのか。全体がとしか答えようはない。あえて二、三挙げれば、資本主義‐社会主義‐共産主義というかつて歴史的な順序とされた図式を根底から覆し、共産主義を現下の問題として据えろ、と主張している点。国家をすでに死滅しつつある過程として捉え、国家権力の掌握による社会主義に対しては否定的な点。さらに、通常ならば「共産主義」を訴える文書の結論は何らかの政治結社の設立を呼びかけるはずであるのに、結論が「研究所」となっている点、等々である。
 今までの「フォーラム21」や「アソシエ」の呼びかけは、これほど挑発的ではなかった。「良識ある左翼」ならば誰もが納得できるであろうコンセンサスを念頭において書かれていた。それに対してこのアッピールは疑問だらけである。上の三点を例に取れば、なぜ社会主義‐共産主義の順ではいけないのか、その順でことを考えたレーニンをどう評価すべきなのか、等々研究すべきテーマが直ちに抽出されてくる。また、国家は死滅する過程にあるという主張からは、いつからそういう過程に入ったのか、ならば現代の国家とは一体何なのかなど、国家論に関する問いが矢継ぎ早に生まれてこざるをえない。
 さらに言えば、文書は「社会運動の危機」を訴えているが、本当に危機なのかという疑問からはじまって、その危機は本当に「共産主義」によって克服されるのか、そんなことをすれば、かつての赤色労働組合主義と同じことになるのではないかといった疑念も浮かび上がってくる。
 だから、私はこのアッピールを面白いと思うのである。たしかに、このアッピールはさまざまな労働運動家たちや「市民」運動家たちからは、現実の改良だけが問題であるこの時代に、こともあろうにマルクスの「亡霊」を復活させようとする唾棄すべきものと映ずるかもしれない。また、マルクス・レーニン主義を自称する人たちからは、権力を奪取することを語らないこの文書は、汚らわしい修正主義と映ずるかもしれない。しかもである。「広範な大衆」の政治的階級形成をすることを目的としつつも、あくまでも「研究所」なのだという。なぜなのか。そこではいったい「政治」と「研究」の関係はどうなっているのか。これは「統一戦線」なのか?だとしても具体的な闘争課題は何も提示されていない。つまり、疑問はつきない。
 だから、私にはこの文書は面白いのである。もちろん、この研究会がどのように発展していくかは今後の運営次第であるのだが、はじめに行うべきは、このアッピールの挑発に乗って、上に挙げたようなもろもろの問題点を非妥協的に議論することだろう。さまざま分野の研究者やさまざまな「路線」をもった活動家、好奇心溢れる学生が集まり、論争ができる場を作るべきだと考えている。そうしたアーギュメントの空間をつくることが、「社会運動の危機」を克服する第一歩となるのではないかと期待している。

3)表三郎

 60年の安保反対運動から半世紀が過ぎ、諸国家群からなる世界はいよいよ一大変貌の時を迎えつつある。この時に当たって、われわれが再結集し、世界をどう変えるかを共に研究し、討議し、運動しようとするのは,まことに時宜を得た試みであろう。これまでの運動、組織、理論のすべてを再検討することこそが、再出発の条件となるはずだ。小異を捨てて大同につくことこそ、われわれの今なすべきことであろう。全ては対話に始まる。

4)川上徹
 「趣意書」は社会運動の危機意識から出発している。?
 ぼくは、「趣意書」が持っている多少挑発的で、かつ怒りが込められた論調に共感する。何に対して、誰に対して、挑発し、怒っているのだろうか。「私たち」以外の誰か、他者に向かっているのだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。「趣意書」の筆者を含む「私たち」自身の過去(それが 「今」から遠かろうと近かろうと)、過去への省察、それらに対する知的怠慢に向けられたものではあるまいか。もし、そうであるとすれば、ぼくもその挑発に乗ってみようか、と考えたわけである。?
 ぼくはかねて現代の危機は「社会」の危機にあると考えてきた。その場合の「社会」とは、一般に「世間」とか「世の中」とかいわれる、抽象的で曖昧模糊としているもの(全体社会)ではなく、個人を単位とする相互主体的で有機的な関係を持った、人間的実態のあるもの(部分社会)を意味している。その 「社会」が存亡の危機にある。?
 人はみな、日々それぞれに意欲し、考え、引き受け、情熱をもって物事にあたり、それらの経験を重ねることによって、生きている価値を実感したいと強く望んでいる。だが、その価値は、自分を包み込んでいる人々のつながり、互いに主体的で自発的な人間の関係の中でのみ発見し、確認し、認めあえるものである。その関係を失ったとき、人は人たりうるのだろうか。いま、これらの関係から切り離されたまま、否応なくさまざまな「制度」や「システム」に組み込まれていく若者たちの、戸惑いのつぶやき、絶望的な悲鳴が、ぼくには聞こえるような気がする。おそらく独り合点ではないだろう。?
 なぜこんなことになったのか、だれが、何が、こうした結果に因果の責任があるのか。責任とまでは言わずとも、何らかの関係があるのか。人生の大半を、主観的には「左翼」として、しかもかなり周囲に対して騒がしく対してきた者として、おのれとの関わりにおいて考えておきたいと思うのである。?
 「趣意書」はぼくの文脈よりずっと先のこと、社会「運動」の危機を言っている。「共産主義」についてまで言及している。それらについては、いくつかの疑念がないわけではない。おそらくこの「趣意書」の意図を認めて集う人々も一様ではないと思われる。ぼくはむしろそこに期待したい。「社会」とは、 他者の視線を感受し、想像し、そのことによって自らの判断力、構想力を養ってくれる、自分の「居場所」となりうるところである。研究所がそのような一つの 「社会」であることを望む。

5)松田健二 提出された提案文のキーワードは「社会運動」と「共産主義」である。それについて私なりに理解したことを要約する。① 社会運動について 日本でも世界でも、資本主義の形成と確立とともに、人々は政治運動と絡み合いながら様々な社会運動を展開してきた。1960年以降に限定していえば、石油・自動車産業を基軸とする大量生産・大量消費・大量廃棄の資本主義が生みだす諸問題に対応して、70年代には多様な社会運動が展開された。それらは、紆余曲折をたどりながら現在も持続されている。提案文で対象としている社会運動は、ソ連型社会主義の崩壊とともに出来したグローバル資本主義(新自由主義)に抵抗・対抗する、世界的に生起している社会運動である。 提案文は、この新たなる社会運動が総体として示す〈資本主義への抵抗〉を、時代規定的要因として把握している。その代表的な運動は「もうひとつの世界」をめざす世界社会フォーラムであろう。こうしたグローバル資本主義に対抗する20年にわたる社会運動は、いまだ〈我々〉の共通性を創出していないし、反資本主義を旗印とする政治的階級形成に進展していない。そこに社会運動の危機がある。(これは同時に政治運動の危機でもある)。 ② 共産主義について 提案文はそうした現在の社会運動の限界──「オルタナティヴ」の空虚を埋めるものとして、共産主義を提起している。 マルクスの「共産主義は目指すべき未来の運動ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものである」という思想に立脚して、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかでこそ発見されるものと規定している。また、現状を揺り動かしながら、「様々」であることにとどまっている〈我々〉の集団性を進化させていくこととしても、共産主義を定義している。 そして創立すべき研究所を、「〈共産主義〉の理念を利用者とともに、実践的な『問い』として今・ここに出現される装置である」と提案文は位置づけている。 「利用者とともに」とは、現実の政治運動と緊張関係を保ちながら、その担い手と協同して研究・文化活動を展開することである、と私は捉えている。 ③ 研究所をどのように創り、運営していくか 提案文は従来のフォーラム型の呼びかけ文ではなく、旗色鮮明な「最初の一撃」となっている。政治運動そのものではなく、政治運動と緊張関係を保ちながら共産主義を発見していく、理論・文化・思想を創造する活動と運動。私は提案文の趣旨をこのように理解して賛成する。

6)山崎耕一郎 「労働」にこだわりながら、趣旨に賛同する。 私はかねてから、この数十年の中国経済の発展がマルクス経済学の正しさを証明している、と考えてきた。ここでいうマルクス経済学とは、ごく基礎的な「労働価値説」である。平たく言えば、労働が価値を生むということである。なぜそう考えたか。 1978年、「改革開放」政策が開始された時点で、中国には10億の人口があった。言い換えれば、貧しいが労働能力のある人間が数億人いた。資本はないに等しく、生産技術は極めて低い水準であった。「改革開放」以後、有り余る労働力めがけて、たくさんの資本が中国に押し寄せた。そして数十年後、中国は生産総量において日本に追いついた。さらに数十年たてば、国民一人当たりの生産量で日本に追いつき、総生産量でアメリカに追いつくと見られている。資本、技術が労働と結びついたから、巨大な富を産んだのである。続いて有望な国だと見られるインドも、労働力の豊富な国である。 中国の政治や制度のあり方について色々な議論があることは、私も承知している。その議論には私も参加したいと思っている。生産が量的に増えれば国民すべてが幸福になれるとはかぎらないのはもちろんである。しかし、この国の経済的成長の速さ、大きさについては誰も否定できないと思う。経済的豊かさは人間を幸福にする基礎的な条件である。 この間の日本ではどうか。周知のようにたくさんの労働力が、働く場を見出せないでいる。労働条件も低下している。現在の日本は、経済的な豊かさについてはかなりの水準に達している。にもかかわらず多くの人が、働き口に辿りつけない。辿りついても、企業間競争に駆り立てられて使い捨てにされている。この点で現在の日本は、1970年代以降、明らかに後退した。 社会主義とか共産主義とかを論ずるにあたり、権力の所在とか政治や社会の制度から出発して議論するのではない、という研究所設立の趣旨に賛成である。ルネサンスという名称にも好感をもっている。 ただ「労働」にはもう少しこだわってよいのではないかと思う。現在も将来も全ての人々が生き生きと働ける場所を獲得する、あるいは提供するというのが労働者運動の最もだいじな課題であり、それを実現できない現在の社会への批判は重要だからである。 労働して富を生産するといっても、生産物の量を増やせばよいという時代ではないことは言うまでもない。環境との調和は欠かせない。物の生産だけでなく、高い文化、良好なサービスの生産もだいじだ。そういう生産も含めて、人々の労働力が生き生きと活動できる社会を作ることが、我々の課題だと思っている。もちろんそのためには、労働者の様々な運動が進化しなければならない。

ポピュリズム

​後藤 元ほか

れいわ現象~左派ポピュリズムの登場?

​伊藤公雄

​中村勝己

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 ルネサンス研究所・関西

Research Institute for the Renaissance of Communism and Revolution 

〒601-8003 京都市南区東九条西山王町7番地 社会労働センター・きずな気付